犬のように生きろ、あるいはフィレンツェの馬

雨ニモマケズ

有名なあの詩を引用する。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

ここまでは「おう、やったらんかい」という気概がもてなくもない。実際、雨であろうと猛暑であろうと、日々の生活を送れている。しかし、

丈夫ナカラダヲモチ

ここでサッと冷める。このワンフレーズ、絶妙にさりげなく滑り込ませているけど、ていうか実際、これが一番難しいのではないか?人間、いつどうなるかわからないし、身体のことは自分の意思や気力だけではどうにもならない部分が大きすぎるような気がする。

しかしながら、
健康的な生活を送っています。健康のため努力しています。
と、堂々と宣言することもできないような日々を送っていながらこういうことを口にするのも烏滸がましい。意思と気力とで、早寝早起き、禁酒禁煙、バランスよく健康的な食事をとり、身体を鍛えて色んな部位を割りに割ってから、はじめて主張するべきことだ。すみませんでした。私の生活は結構不健康だし意志薄弱だ。

 

健全な精神は健全な肉体に宿る

古代ローマ時代の詩人、ユウェナリスの言葉である。
「じゃあなにか?不幸にも健やかな身体を持たざるものはすべからく精神を病むちゅうことか?そりゃあ傲慢というものじゃないのか?」と、私はこのフレーズに対して不満を感じてならない。
しかしこれは誤訳で誤用らしい。実際の意味は「もし神へ願いごとをするのなら、健やかな身体のなかの健やかな魂を願うべきだ」というものだそうだ。富だの名誉だの美だのというものは破滅を呼ぶから願ってはならないよ、とのこと。

 

不眠と後悔と不安


ここ数日、眠れない夜が続いている。こういった夜は、不眠症だった中高生の頃を思い出す。なかなか辛かった。不眠といっても全く眠れないわけではない。バッテリー残量が0%になるとやっとフッと眠りに落ちることができるという感じだ。残り10%や5%では眠気を感じていても眠ることができない。2時間ほど経過してバッテリーが10%くらいまで回復すると自動的に目が覚め、頭が妙に冴えてきて二度寝が効かない。バッテリー残量10%の赤ゲージのまま1日過ごして、夜になり疲れきってベッドに横になっても眠れず、明け方電池が切れるのをまんじりと待つ、という繰り返しだった。

最近に関して何故うまく眠れないのかというと、夜になるとつい、上手くいかなかった過去について思いを巡らせてしまうからである。あの時こうすればよかった。そうしたらこうなってた。こういう未来を目指すべきだったと。そうやって過去を嘆き、更に未来を憂う。将来に対する希望の形が見えない。過去と未来とが、ぐるぐるとかわるがわるに押し寄せてくる。非現実的な妄想でこのような思考を追い払おうと何度も試みるのだが、いつの間にかこの後悔と不安の渦中に戻って来てしまう。でも抜け出せないだけで、わかっているのだ、過去も未来も考えたところでまるで意味がない。

 

犬のように生きろ


犬はいい。犬が大好きだ。過去を嘆くことも、未来を憂うこともない(たぶん)。食べ物への執念は凄まじい。食べ物のことと、近くの人、遠くの犬、現在の自分の感情だけ、今だしか持とうとしない。そしてよく食べ、よく寝て、よく走る。
好きなものには人でも物でも執着する。あとは全て興味のないもの、自分とは無関係なものとして見向きしない。嫌いなものもそこそこ、それぞれにあるのだが、自分からそれに近寄ろうとは絶対にしない。不意にそれらが自分のテリトリーに侵入してきてはじめて、怒ったり恐れたりする。犬は人が喜ぶことが好きだし、びっくりするくらい優しい。

 

フィレンツェの馬


ブログのアイコンに設定している馬のブロンズ像は、フィレンツェにある現代美術館で撮影したものである。Marino Mariniの作品だったはずだ。
まだ若そうな馬を形作る稜線はなだらかで暖かい。無垢な魂の形をなぞっているようだ。首をまっすぐにあげて、前方を、見ているような、見ていないような。何かを少し期待し、何かを少し諦めているような。でも自分の生きている場所に疑問を持たず、ただそこに在るような。
この作品を前にして、私はぼんやりと「さういふものになりたし」と思ったのである。